今日のお題は、右脳(心から魂に意識を向ける)の使いどころ。

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右脳を働かせることは重要だと聞きます。
しかしその前に人生に向き合う姿勢としてどうあるべきか?
常に真摯でありたいと思います。

自分に与えられた人生(と言う時間)は自分のためだけにあるのでしょうか。
「人はなぜ生まれてきたのに、死んでいくのだろうか?」

そんなことを、私は小学校卒業の作文に書きました。とても変な子供だったようですが、振り返ると、折に触れてはその意味を深く考えてきたように思います。普通の社会人となり、いろんな人と出会い、挫折して、心を閉ざし、そして奮起し自ら事業を起こしたりもしました。辛いことや悲しいこと、世の理不尽なことにもたくさん遭遇してきました。

私は特定の宗教を信仰してはおりませんが、とあるきっかけからお釈迦様の教えに出会う事ができました。その教えから、私心(自己中心)で金稼ぎをするだけの人生というものに、それほどの意味は無いのだと気づかされたのです。そして、真の豊かさとは、心の豊かさなのだと得心することができました。

私は、けっして世間で言うような成功者ではありませんが、それでもこうして、命(生活)を繋いでくることができたのは、お陰様であるのだということを身に沁みて思います。日々、感謝ですね。

袖擦り合うも他生の縁。

よく聞く言葉です。人と人の間と書いて人間と言う。
これはすなわち世間(社会)そのものですね。
「信頼」と「支配」は二律背反の原理だろうと思います。
束縛のない時間には無限の可能性を期待することができます。

束縛社会は欧米帝国主義(大資本主義)に代表されます。それは管理統制のなかにおいて、人々の自由を法に基づき規定しつつ、民主主義という化粧をほどこした奴隷制度の別の姿であったということに気づきました。この管理・統制主義が徘徊・専横する現在、私たちは「信頼」という言葉をもはや死語のごとく扱っているのかも知れません。

『人は人に支えられている』

このことがすなわち社会であるはずです。
かつて船井幸雄さんの著作で教えられたように、『今だけ、お金だけ、自分だけ』との風潮のあることは見逃せない事実であります。しかし、信頼のないところ(心のない世界)に、いったい何が待ち受けているのでしょう。

仏教の言葉で忘八(ぼうはち)社会という言葉があります。
水木しげる先生の『げげげの鬼太郎』に出てくる、様々な亡者たちで溢れかえっているおぞましい世界。まさに今の世界情勢を見るような気がしてきます。

どうでしょう。今まさに、一人一人が世の中を立て直していくために共に力を合わせていく好機であるように、私は感じています。
共生社会(調和する社会)とは、いったいどのような社会なのでしょうか。そしてそれはどのようにして創造していくことができるのでしょうか。この頃、私はそんな大それたことを夢想するのです。

でも私は思うのです。心から魂へと、意識を集中する機会を増やしながら、左脳から脳幹を通じ右脳の働きを活性化できるようにしていくこと。そうして、日本という風土と文化に根ざした魂たちが集結していくこと。今はそういうことが大切なことのように感じているのです。私は思うのです。そこに鮮やかに碧く黄金色に輝く高貴な光が私たちを包み込んで、本来あるべき未来社会への道しるべを、私たちに照らし示してくれるだろうと。

西洋思想から東洋思想へ

 デカルトの『我思うゆえに我あり』とする個の定義は相対的に自己認識するという立場ですから、すなわち他と差別化する考え方がすべてにおいて優先されることになります。

 現代社会はこのような西欧思想のもとに発展・進化、と言うよりもむしろ後退・退化・衰退・退廃・腐敗の途上にあることは疑う余地のないところですが、何か邪悪なものがその見えざる力を行使することによって、人類を無明の淵源へと導いているように思えてなりません。

 それは二元的対立概念(心と体)、すなわち生命は肉体に宿っているとする唯物論が現代の資本・民主主義社会システムの構築を正当化する思想基盤となってきたことに起因するものではないでしょうか。 

 参考:デカルト『方法叙説』(Discours de la Methode)

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 良識( bon sens) はこの世で最も公平に分配されているものである。というのは、誰でもそれを十分に与えられていると思っているので、他の全てのことではめったに満足しない人々でさえも、良識については自分が持っている以上を望まないのが普通だからである。

 この点で全ての人が誤っているということは、ありそうにない。むしろこれは次のことを証明している。すなわちよく判断し真なるものを偽なるものから区別する能力、これが本来良識または理性と呼ばれているものだが、これは全ての人において生まれつき相等しいこと。
 
 したがって我々の意見がばらばらであるのは、我々のうちの或る者が他の者よりもより多く理性を持つから起こるのではなく、ただ我々が自分の考えをいろいろ違った道によって導き、また我々の考えていることが同一のことではないということから起こるのだということである。というのは、良い精神を持っているだけでは不十分であり肝心なことは精神をよく用いることだからである。

 最も大きな心は、最も大きな善行をなしうるだけでなく最も大きな悪行をもなしうるのであり、また、ゆっくりとしか歩かない人でも、いつも正しい道を取るならば走っている人が正しい道から逸れる場合に比べれば、遥かに先へ進みうるのである。

 ここでいう良識は仏教でいう善とは遠くかけ離れた立場から事象やものをとらえる意識です。かなりいいせんを行っていると思うのですが、まだ心のレベルに達していません。

 これをさらに心の藪に踏み込んで整理思考してきたのは、まさに東洋思想でありますが、その中でも仏教でいう身心一如(シンジンイチニョ)すなわち心と体はひとつであるとする考え方はより高位の次元で精神を修養し発揚・向上させるアプローチであると言えます。

 現代の社会システムを支えてきた唯物的(物質優先)な考え方による成長の持続(GDP成長)や右肩上がりの業績伸張を期待するような事業経営者の恐ろしく現実離れのした思考による価値観が正当化されていた時代はもはや過去のものとし、物質経済に執着を持って欲望の奴隷に成り下がるような生き方はもはや改めるべきときです。
 いわゆる人のもつ煩悩や所知障の根源である三毒(貪・瞋・癡)が地球環境の破壊を促してきたという事実をあきらかに受け止めてから善に基づく生活をする必要があります。

菩薩者(仏法者)の生き方

 常に何か(誰か)と比較(差別)する身勝手で息苦しいだけの生き方が西欧思想の末路であることがもはや明確になった現在、これからの正しい生き方とはいったいどのようにあるべきなのでしょうか。

 本来無一物(所有せるものこれ一切なし)とはまさに東洋的思想の源泉であると思います。しかし実際の世の中では、多くの人々は正しいと思うことを知りながらもその道を実践していません。自己愛のカルマ(業)が人の生き方を怠惰で邪悪な方向に導いているようです。

 別に俗的宗教(伽藍仏教)を布教するつもりは毛頭ございません。これからの「正しい命の使い方(生き方)」として充分その指標となり得る考え方が実はこの菩薩者の生き方にあると思っています。

ご参考までにお話いたしますと、概ね以下のようです。

『世間的な果報を望むことなく、宇宙法界(うちゅうほっかい)とともに生まれてきたかけがえの無い大切な生命に内在する功徳性を、いかに充分に発揚するかということに専念する心、そしてその功徳性を地上のため、法界全体のために発揚することができるか』という生き方のことを菩薩者と定義します。

 自己愛の対極には感謝という他己(社会)愛への目覚めがあります。これが菩薩者としての意識の発芽であります。悲しいことや、辛いこと苦しいことを多く経験すればするほど、自分の意識を超越して人の心の深遠なやさしさや可愛さに出会うことができます。

 この気付きによってそれは突然やってきます。『自分の為にではなく誰か自分以外の人の為に役に立ちたい』という慈悲の心(社会愛)です。心の中が感謝の気持ちでいっぱいに満たされてきます。頭の先から足の爪先まで、全身全霊に感動という力強いエネルギーが湧き水のごとくに漲ってきます。

 これは邪悪なものとの戦いのはじまりでもあります。勧善懲悪のため正義を貫くための勇気を奮い立たせるそのときです。もはや逃げることもしません。信念に従って突き進むのみです。

菩薩者を支える八正道(善行の羅針盤)

 八正道とは菩薩者を支える道(正しい教え)のことです。
迷うことなく善を勧め、身心一如に至る道です。古代インド哲学であるヴェーダでいうブラフマンとアートマンの一体化(梵我)です。仏教においては入我我入といいます。

   正しく見る
   正しく思う
   正しく語る
   正しく仕事をする
   正しく生活する
   正しく道に精進する
   正しく念じる
   正しく定(ジョウ)に入る

 一切の執着から一旦離れて、足ることを知り大自然の恵みに感謝する。
そこが菩薩業の出発点となります。よく経験されることですが、日常において迷いや怖れ、または不安などの無明(暗黒面)に入り込んでしまうことはよくあることです。この邪悪面(ダークサイド)に引き込まれないようにするのが、この八正道の教えであります。

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 すばらしいバイブルがあります。それは『般若心経』というお経です。これは雑念を払い切って、入我我入する力を養生することを助けてくれます。たった262文字の中に、全宇宙を体感するためのエッセンスが凝縮されています。

般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)、サンスクリット語読みにしますと『パニャーパラミッター』と発音するようです。直訳解釈では『内在された智慧の根源に到達する』などとわかったようなわからないような意味だそうです。
 しかし意味を知る必要もありません。何故ならそのような頭(左脳)で理解する代物?ではないからです。地水火風空、真理もしくは法(ダルマ)と言ったりもしますが、般若心経が教えているのは『一切が空であることを知りなさい』ということです。

 空(くう)、これは仏教哲理の根本です。
無いわけではなく、またあるとも言っていません。実はわれわれが目で見ることのできる極微量の世界(ゴビ砂漠の一粒の砂よりも小さい世界)のことを色(しき)と言います。色即是空(しきそくぜくう)の色です。そこには荒涼寂寞たる砂漠があるが、実際には砂があるだけで砂漠なんかはもともと無い、といった風な感じです。

八正道(はっしょうどう)

八つの悟りへの道のことです。

正見(しょうけん)=如実知見
二元世界の中で、一方だけの立場に立って考えることは正しくない。分別(差別)をせずにありのままで見なさいということです。

正思惟(しょうしい)
極端を離れ中道において禅思、三毒に汚されていない心をもって物事を正しく観察する。内側にあるものを見る智慧のことです。

正語(しょうご)
正しい言語活動をさし、嘘や中傷を言わないことです。常に真理を語り人々の役に立つ言葉や考え方を語ることです。言語は人々への真実伝達の方法。

正業(しょうごう)
正しい行為を日常生活の中で自覚することです。

正命(しょうみょう)
正しい生活法、正しい生命の使い方(役立て方)。

正精進(しょうしょうじん)
正しい努力、勇気、決断をもって、目的に向かって専ら進む継続性。

正念(しょうねん)
修行の徳目を正しく憶念することです。

正定(しょうじょう)
正しいサマーディー:瞑想=三昧(ざんまい)のことです。心を鎮め、その動きを停止したときに起こってくる心境の段階を教える。

ジャーナ(禅定)により、心を静寂にし、心を軽くするという内面核の中心に心をそそぐ。内奥の力を引き出し、意識という束縛から離脱することで新しい心の世界を発見する方法のことです。

水が静止すると、鏡のように万物をそこに映し出すことができます。これと同じように心の働きを停止させると、宇宙とつながっている自分を発見することができます。このような心の静寂を呼び戻す瞑想のことを、サマタ(止)と申します。最近では、イメージ療法と称して紹介されるところですが、正しい言い方
は『仮想観(ケソウガン)』と申しまして、数息(スソク)、相随(ソウズイ)、止(シ)、観(カン)、還(ゲン)、浄(ジョウ)などのアプローチがあります。これは、身心を清め、安寧を得るための確立された教え(精神医学)です。その源泉はインド古哲学のヴェーダにまで遡ります。

 日常の私たちの生活を振返りますと、いろいろな雑念にまとわり憑かれて安寧を得るどころではありませんね。しかし、そういう日常の中にさきほどの静寂を得る方法があります。先にお伝えした『仮想観(ケソウガン)』のなかの数息(スソク)、つまり深い呼吸のことです。息を1から10まで数えて、それを繰り返すということです。最近ではいろいろな本で紹介されておりますのでここでは割愛させて戴きますが、よく知られたところでは「釈迦の呼吸法」というものがあります。この呼吸法の確立は釈迦時代よりもさらに2,500年以上も前に遡るようです。

 十持てる者は、百が欲しくなり、百持てる者は千が欲しくなり。これが永遠に続いていくような社会がまさに今です。人のものもすべて奪ってそれでも満足できない、どす黒く膨らんだ腹をもった亡者の姿が思い浮かんでまいります。このような限りの無い欲望のことを海水的欲望といいます。いくら飲んでも渇きは癒えないわけです。その対極には真水的欲望というものがあり、すなわち足ることを知るという謙虚な姿があります。

面白いお話があります。
宇宙の果ての果てから見つめた自分と、自分から見た自分が同じであるならばそれをまさに悟りというそうです。さきほどの「一切が空であることを知る」という般若の教えそのものです。

第2次世界大戦の末期、大空襲を受けた東京は廃墟と化し無一物になったわけですね。しかし、そこから見事な復興と発展を遂げてきました。戦争を知らない世代ですから、何も無いということの意味を実感することはできません。何でもお金で買える便利な世の中になりましたが、その引き換えに、どこかに善の心を置き去りにしてきたようです。

E・F・シューマッハーの『Small is beautiful』(人間中心の経済学)を読まれたでしょうか。ドイツの経済学者で世に仏教経済を提唱された方です。ここで彼が現代の経済学と仏教経済学とを比較されていますので、少しだけご紹介させて戴きます。

<現代経済学>

1.富への執着と暴力と戦争
2.欲望の限りない増長
3.労働の生産物重視
4.ものの消費の重視
5.物質的価値の重視

  <仏教経済学>

1.簡素と非暴力
2.人間性の鈍化
3.労働者そのものの重視
4.創造的活動の重視
5.非物質的価値の重視(正義、調和、美、健康)

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 よって、現代経済学はさきほどの海水的欲望の世界を現出させることに見事に成功してきたわけです。これに対して、真水的欲望(足りる分だけで満足する)におさめ、互助の精神で調和のとれた共生社会を実現させる為の経済学としてこの仏教経済学を提唱されたようです。ご存知のように、現代経済学も既に理論的な破綻をきたしております。

 限りのある地球、誰のものでもない共有であるべき資源をいったいどうしたら維持していくことができるのでしょうか。答えは必ず同じ方向に向かい収束帰着していくことを期待したいものです。

アメリカ先住民ナバホ族が私たちに残してくれた、心に沁みる真実の言葉があります。『自然は祖先から譲り受けたものではなく、子孫から借り受けたものである』私はこの言葉が大好きです。未来永劫と続いていくその様子が心の目に映るような気がしてくるのです。

 右肩上がりの経済成長は現実的にはあり得ない話です。まだ資源が豊富であると錯覚している一部の国(という閉鎖環境)では過激増産と巨大消費に支えられて経済成長をしているように見えていますが、それは必ず枯渇します。枯渇したら、それを持っている国から奪おうとするはずです。それが侵略戦争といわれるものです。これはまさに無いものねだりで人のものを金という力で奪うM&A(企業の合併買収)に酷似しています。